相場で失敗した講談社創業者が、新事業を始めた驚くべき熱意 – 現代ビジネス

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ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。



「大逆事件」の嵐が吹き荒れた明治43(1910)年頃、弁論雑誌『雄弁』の創刊前後の清治は相場に手を出し、経済的な手痛い大失敗をこうむった。そんな中でも、清治の熱意が、人と時代を動かしていく。

第三章 大逆事件と『雄弁』、そして『講談倶楽部』―あぶく銭 (2)

団子坂下に移る

それと同じ時期、つまり明治42年11月、清治一家は、やがて講談社発祥の地となる本郷区駒込千駄木坂下町48番地(通称・団子坂下)の借家に転居している。

借家は、大工の手を離れたばかりで木の香りも新しく、2階が2間、1階が4間あった。玄関3畳のわきは女中部屋で、相当な台所もあり、いかめしい門と小さいながら庭もついていた。

台所町の借家に比べると、あまりに立派だったので、左衛が「こんな大きな家を借りてどうするんですか」とびっくりした。家賃は12円で、台所町より3円高い。以下は、清治の回想である。

<いろいろのことに失敗した。そこで考えた。どうも金が必要だ。しかし金の出る方法がない。そこですこし大きい家に住もう──これは妙な矛盾したような話で、権道(正道ではないが、目的達成のためにとる便宜的な手段・方法)である。普通の場合には、権道は踏まないようにしている。しかし、事業をする以上は、万止むを得ない場合がある。私は今やその万止むを得ざる場合に立っていた。そこで比較的大きな家をさがして、団子坂の家に移った>(辻平一著『人間野間清治』講談社刊より)

この言葉には清治の性格や事業哲学がよく表れている。彼は弱気になることがない。たとえ窮地に陥っても萎縮せず、積極的に打って出て局面を打開しようとする。相場で大損した直後の団子坂への転居もそうだった。

結果を先にいってしまえば、彼の見通しは当たった。分不相応なほど大きな家は、すぐに『雄弁』の編集所になり、さまざまな大学・専門学校の学生たちが出入りする弁論界の情報センターになった。もしも、清治がこの家を確保していなかったら、教授でも学生でもない、一書記が雑誌発行の主導権をすんなり握ることができただろうか。

学内の了解は取りつけた。さて……

雑誌発刊の方針が決まると、清治は学内の了解を次々と取りつけた。梅謙次郎や松波仁一郎のほか、のちに学士院長になる山田三良(やまだ・さぶろう、法科教授・国際私法)にも「『雄弁』という雑誌を書記の片手間で出して、大学で認められますか」と相談した。山田が「学生の意見や思想を世の中に知らせることは、学生にとっても励みになる。やってよろしい」と答えると、清治は非常に喜んで「ほかの先生方にも、お咎めのないように話していただきたい」と言ったという。

清治は、学長の穂積にも雑誌発行の計画をそれとなく打ち明け、承認を求めようとした。すると、穂積は、意外なほど穏やかな口ぶりで「まあ、やるのもいいけれども雑誌はむずかしい。多くの人がやるが、すぐ潰してしまって容易なことではない。損をしないようにしてやればよかろう」と、笑って了解してくれたという。

次は、緑会の重鎮で学生雄弁家として名を馳せた青木得三(法科OB)の証言である。

<『雄弁』を創刊せられるときに、私は大蔵省の役人でありますが、私のところに(野間さんが)相談に見えた。そうして、青木さん、私はこれから『雄弁』という雑誌をやろうと思います。というから、それじゃあなたは法科大学の書記はどうするのですかと聞いた。そうしたところが、雑誌の方がうまくいけば、法学部の書記をやめます、うまくいかなければ続いて法科大学の書記をやります。へえ、そんな二股をかけることができるのですか、穂積学長のご承諾を得てありますか、といいましたら、ちゃんとご了解を得ているというから、学長の了解を得ておるならなにもいうことはありません、おやりなさいということで、初号から原稿料なしの原稿をほとんど毎号のように書きました。後日になって、原稿料の何倍かのことをしていただきましたが>

問題は発刊資金である。政治・時事問題にふれる雑誌を発行するには1000円の供託金を納める必要があった。が、法科の教授らに嘆願しても誰も貸してくれない。金がない以上は、自分で雑誌を発行するのをあきらめ、どこか適当な出版社に出してもらうしかない。



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