船木誠勝、デビュー33周年で明かすUWF時代の葛藤、解散、そして新たな道 – スポーツ報知

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 今年でデビュー33年を迎えたプロレスラー、船木誠勝(49)が30日、大阪のエディアオンアリーナ大阪第2競技場で「甦ったサムライ船木誠勝デビュー33周年記念大会」を開催する。「WEBスポーツ報知」での連載最終日は、波乱万丈のレスラー人生の中で船木自身が思い出に残る2つの時代、UWF時代の葛藤、解散、新たな道を語った。



 船木は、1988年4月から英国へ初めての海外武者修業に出たが帰国後の89年4月、新日本プロレスを退団しUWFへ移籍した。UWFは、84年4月に旗揚げし、前田日明、初代タイガーマスクの佐山サトル、藤原喜明、高田伸彦(現・延彦)、木戸修らが所属したが、1年半で経営不振に陥り、新日本と業務提携を結び86年1月からUターン参戦を余儀なくされた。

 しかし、87年11月、試合中に前田が長州力の顔面を蹴り上げたことを発端に解雇され、88年5月に新生UWFとして再旗揚げし、キックと関節技を主体とした格闘スタイルに加え斬新な会場演出、さらに前田のカリスマ性などがかみ合い空前の人気を獲得していた。船木は、そんなブームのまっただ中にUWFへ飛び込んだ。

 「海外から帰ってきてUWFに移ってきたんですが、自分の中では、つい去年までは若手という感覚なんです。だけど帰ってきた途端にいきなりメインとかセミとかでやることに対して背伸びをしなければいけない状況があった。その時はハッキリとは分かっていませんでしたが、そういう背伸びしていた感覚も今、ようやく気づきますよね。あの時は、なんか自分らしさを出せなかった。どうやって試合をしたらいいんだろうかってずっと思いながら試合をしていました」

 UWF移籍に際しては新日本はアントニオ猪木自らが説得に乗り出し懸命に慰留に務めた。新日本はこの年の4月24日にプロレス界初の東京ドームでの開催を控えていた。このビッグイベントに新日本は、世界的映画俳優のジャッキー・チェンとのエキジビションマッチを船木に提示した。

 「ジャッキー・チェンとの試合は魅力ありました。魅力ありましたけど、その時、ちょうど(獣神サンダー)ライガーさんが一緒にイギリスに来ていて、相談したんですね。そうしたらライガーさんが“それは、すごいことだけど相手は俳優だからね。俳優と試合してもあんまり意味ないんじゃないか”って言われたんです。それで、目が覚めました。我に返ったんです。今だったらジャッキー・チェンという世界的映画スターとエキジビションでもできたらすごいとなりますけど、あの当時は、それが水物というか、そういう方向じゃなかった」

 では、UWFを選んだ理由は、何だったのか。

 「誘われました。誘っていただいたのは、高田さんと山崎(一夫)さんと神(新二)社長です。イギリスへ行く前に誘われました。本当は旗揚げからいて欲しいと言われたんですけど、とりあえず海外遠征が決まっていたんで海外で1年の契約もしちゃったんで“1年間、イギリスに行って終わったら合流します”って約束していたんです。その時は、なんかやっぱり当時の新日本プロレスが抱えていた不安定なところよりも、だったら新しい若い力で作っていける新しいところに行こうと思ったんですね。それと、やっぱり前田さんが長州さんを蹴って、それに対して新日本が前田さんを解雇して、そのことが当時は新日本が逃げたみたいなイメージが付いちゃいましたから、そういう意味を含めてあの会社にいてもどうかなと思ってしまった。それで、誘ってもらったんでこれはやっぱり必要とされているなと思ったんです。だから新日本プロレスにいるよりUWFへ行って思いっきり新しいプロレスの手伝いをしていった方がいいなと普通に思いました」

 英国での修業中に新生UWFへのイメージが膨らんでいた。

 「強さの追求というかあの当時はUWFのスタイルが最先端だと思いました。まだ総合格闘技っていう形ができてない時に、新日本プロレスのストロングスタイルの上を行く格闘スタイルという感じの新しい最先端ができたなというイメージだった。そこにやっぱり行きたくなった。藤原さんとやって自分が強くなったのを実感しているので、もっと強くなろうと思ったんですね。ここまでせっかく強くなれたので、できるだけ必要最小限ビリにはなりたくないなと思いました。UWFは道場の練習の延長でいける部分があったのでその方が自分の実力につながるなと感じた」

 新日本を含め米国マットなどUWF以外の選択はまったくなかったという。

 「海外はまったく意識していませんでした。自分の中では目の前の日本だけだった。ただ、海外に行ったら、海外のスタイルをやらなくてはいけないんです。自分はいわゆるジャパニーズスタイルというか日本のキックとか空中殺法とかやりたかったし、タイガーマスクが好きだったんで蹴りと空中殺法を使って試合をしたら結構受けました。それでも、日本しか考えていませんでした。それは、やっぱりUWFが大きかったと思います。あそこでUWFがまた新生で独自でやるようにならなかったら、多分そのまま残ったと思いますけど、繰り返しになりますが、新生になってそれで誘われましたから迷いなくUWFへ行きました」

 希望に燃えたUWF。しかし、移籍2戦目で早くも壁にぶち当たる。89年5月21日、東京ベイNKホール。相手は元WWF世界ヘビー級王者ボブ・バックランドだった。

 「UWFスタイルはすごく好きでした。ただ、最初にバックランドとやらされて、アメリカンレスラーだし、UWFのリングだしどうやって試合をしたらいいんだろうかってか悩んだりした」

 試合は、コーナーからミサイルキックを放ち、新生UWFでは初の反則負けとなった。

 「当時は自分だけでもUWFの中でプロレス技が使えたら、どうかな?ぐらい思っていました。自分だけでもやったらどうかなって。海外から帰ってきているし元新日本だしプロレス技を売りにする選手が一人ぐらいいてもいいんじゃないかなぐらい思っていました。そんな葛藤があのミサイルキックに出たんだと思います」

 純粋なプロレスとUWFの間で自らのスタイル確立に悩んでいた移籍1年目。波紋を呼んだ試合もあった。同じ年の8月13日、横浜アリーナ。高田との初対戦だった。開始早々、船木の掌底ラッシュで高田がグロッキー状態で倒れてしまった。ところが、レフェリーはカウント9まで数えたところで、辛うじて立ち上がろうとしたところでカウントを止めてしまった。超満員のアリーナでこれまでのUWFの試合ではありえないブーイングとどよめきが渦巻いた。試合は続行され結果、らくだ固めで船木は敗れた。あの時を今、船木は、こう振り返る。

 「あそこでとどめを刺そうとか別にそういう風にしようと思っていないです。自分はUWFを格闘技により近づけたいと思っていただけなんで、プロレスを壊す気持ちは一切ありませんでした。カウントを止めたのはそれはレフェリーの判断ですから。ただ、あれでもしも自分が勝っていたらそれはそれで仕方がないと思っていましたし、それぐらい新しくしないとUWFがプロ格闘技だと言えないじゃないですか。あのころは、今までの猪木さんの新日本以上に技術が完全に格闘技化していた。受けてやり返すという感じの試合ではなくなっていた」

 当時、最も精神的に辛かったのが、新日本時代から練習に通っていた徒手武術「骨法」の堀部正史からの言葉だった。

 「堀部先生の影響が一番きつかったです。倒せって言われていましたから。ルール無視してプロレス壊してもいいから倒せって言われたんです。だけど、それは無理なんです。なぜかと言うとお互いが格闘技として用意ドンでやるならいいですけど、プロレスとしてやろうと思っている相手に格闘技をやるのは卑怯ですから。それは自分にはできないんです」

 様々な葛藤から吹っ切れたのは練習中の骨折による89年秋から約半年間の欠場だった。

 「ちょうど骨折したんで半年間、ずっと、自分の方向性を考えたんです。そこで、出た結論が、じゃぁ完全にプロスポーツ、格闘技の方向に行けばいいんだと思った。もっとそっちへ近づいてやろうと思ったんです。それからは、ボクシングを徹底的にトレーニングして、試合で掌底とかを使ってもっと本格的なスタイルでやったんです。そうすると、先輩たちが目尻が切れてドクターストップで勝ち始めたんです。それが逆に新しい風が吹いたというか。ただ、前田さんに注意されましたけどね、“ケガさせることとは違うんだよ”と言われたんですけど、それでもその時、自分が考えて出した答えがそれだったんで、行けるところまで突っ走ろうと思った。最終的には前田さんには止められましたけど」

 絶対的なカリスマだった前田とは、90年5月4日、日本武道館で初めて対戦する。試合は、前田の片羽締めで敗れた。異変が起きたのは試合後だった。リング上でお互いに両手と両膝をついたまま前田が船木の耳元で諭すように話し続けたのだ。あの前田のささやきは何を言われていたのか。

 「あれはですね、“全然、客沸いてないぞ。沸いてないぞ。どうするんだ”って言われました。そう言われても、自分としては、どうしようもないんですよね。それで意味が全然分からなかったんで、そのまま控室で上着だけ着てタクシーで帰ったんです。あのころの自分はUWFに対して、そこまでスポーツ格闘技になってしまっていいのかなと思っていた。自分は最初の1年間は知らないですから、そこまでスポーツ格闘技になって大丈夫なのかなっていう自分なりの疑問はありました。ただ、あの時は完全に前田さん一人の吸引力でやっていましたから仕方ないんですよね。それも含めて悔しかったですね。自分の弱さというか、強ければそれも全部把握して自分のスタイルを作れたと思うんですけど、なかなかそれも難しいですから」

 葛藤を抱えながら自らのスタイルを築くべき進んだUWFの2年目。結果、山崎、高田、藤原の格上レスラーを連破し、前田の後を継ぐ新エースの座が現実になってきた。そんな矢先、前田のフロントとの対立が表面化。UWF最後の試合は、90年12月1日、長野県松本市運動公園体育館。メインは船木がウェイン・シャムロックと戦った。

 「前田さんと事務所が分裂して、最後の大会は自分とシャムロックがUWFの最後の試合だったんですけど、あの試合もガンガンできて自分なりのUWFスタイルができあがってきた。さぁこれからだと思ったらUWFがなくなるんです。やっと自分のスタイルを確立しそうになったら解散してしまった。もし、解散していなかったら、どうなっていたんだろうってそういう思いもいまだに出て来ますね」

 なぜ、UWFは解散したのか。

 「あれは選手と事務所が離れて、選手だけになった時に選手としてのまとまりがまったくなかったんです。みんなが個人事業主でした。入ったばかりの冨宅(祐輔、現・飛駈)とか垣原(賢人)を田村(潔司)を誰が引き取るかとかそんな感じでした。宮戸(成夫、現・優光)さんとか安生(洋二)さんは前田さんの言うことは聞きたくないって言っていたので自分なりの自我がみんな出て来たんでしょうね。もうみんな新弟子じゃなかった。新人、新弟子、若手じゃなかったんです。気持ちがみんな個人事業主だった。何かしらムーブを動かせばお客さんが入る、そういう時代だったから、できるだけ身軽になってみんな好きなことをしたくなったんだと思います」

 解散したUWFは、前田が1人で「リングス」を旗揚げ。高田には山崎、安生、宮戸、田村らが付き「UWFインターナショナル」を設立。そして、船木は、共に新日本からUWFへ移った鈴木みのると共に藤原を頼って「プロフェッショナルレスリング藤原組」に参加した。

 「あの時の自分は、自分のネームバリューに自信がなかったんです。自分と前田さんが戦ったり、自分と高田さんが戦ったりとかならまだいいんですけど、自分と無名のヤツが戦ってそれでお客さんを呼べるかなってまだハテナマークだったんです。なので藤原さんに相談した時に“メガネスーパーが付くからすぐにお前ら来い。引き取ってやる”って言ってくれた。それで、これしかないって、まずは安心して試合ができる場所がありますから。その時に“メガネスーパー行きましょう”って他の選手にも言ったら、宮戸さんと安生さんはそれだと今までと同じで自分たちの好きなことができなくなるから残りますって言ったんです。田村と垣原もUWFを捨てたくない。自分と鈴木は藤原さんと約束しているから行きますって言って、そこに付いてきたのが冨宅だけだった。それでできたのが藤原組だった」

 前田には主力選手は追随せず実質的に1人となったが、それは必然だったのだろうか。

 「必然だったんですかねぇ…。前田さんには耳が痛いような感じのことばかり言われていたんですけど、怒られたり殴られたりとかは一回もなかった。言って聞かせられることばかりだった。ただ、やっぱり拒絶してしまいましたね、あの時は」

 91年1月、前田は、自宅マンションに選手全員を呼んで「一人でもオレの言うことを聞かなかったら解散だ」と話したという。その時に付いていけない素振りを見せた選手が複数いたため前田は「解散」を決断した。

 「自分は、前田さんに残ったメンバーだけでもやりましょうって言ったんですけど、一人でも欠けたら無理だって言ったんですね。その途中で藤原さんと話が付いちゃったんで自分は戻れなかった。それ以来、前田さんから電話がかかってきても出なくなりましたね。前田さんは一人でも言うこときかなかったら辞めるって言ったんですけど、多分、そう言えば、みんながまとまるんじゃないかと思っていたと思うんですね。だけど、それで決定的にみんながバラバラになったんです」

 解散から2か月後の91年3月4日、後楽園ホールで藤原組は旗揚げした。

 「UWFではプロレスの進化形を目指していたんですが、藤原組の時は迷っていました。どこに行けばいいんだろうかって。UWFでもないプロフェッショナルレスリング藤原組ってなりましたんで、一体、これはどうすればいいんだろうって一番、迷っていましたね。ただ、いろんなことができた時期はあそこでした。練習もたくさんできましたし、試合も日本人同士の時は全部アドリブでした」

 藤原組では日本人同士の対戦は格闘技を実践した。その後、鈴木と共に藤原組を離脱し93年9月21日、東京ベイNKホールでパンクラスを旗揚げする。試合は、一瞬で決まることから「秒殺」と評された。パンクラスは完全に格闘技だったと明かす。

 「パンクラスではそれが当たり前だった。旗揚げから完全になしで用意ドンでやっています。それをやらないと他との差別化ができなかった。何か違うことをやらないといけないと思っていたんです。UWFスタイルもみんな見慣れているし、ネームバリューからすると前田さん、高田さん、藤原さんには自分は勝てないですから、新しいことをってなった時にあれやるしかないなって思った」

 パンクラスで掲げた方針は、盟友の鈴木と話し合っていなかった。

 「鈴木には聞いてない。他の下の若手には聞きましたが、それでいいです、やりましょうって言われた。だけど、鈴木は自分と同じ気持ちだと思っていたので、敢えて確認を取っていないです。そのうち鈴木は勝てなくなったので、鈴木は苦しかったと思います」

 プロレスの進化形を追求し続け、たどり着いた場所が2000年5月26日、東京ドーム。“400戦無敗の男”ヒクソン・グレイシーとの戦いだった。結果は1回11分46秒、チョークスリーパーで失神負けした。

 「ヒクソン戦へ至ったのは必然です。パンクラスで完全に切り替えたので格闘家しか相手がいなくなりましたから。そういう意味であの試合は必然だったんです」

 紆余曲折と波乱万丈の33年。そして今、輪廻転生のようにプロレスのリングに立っている。

 「今は、入門した時のような最初に戻る気持ちなんです。なので新日本とかUWFのころのことをすごく考えるんです。あのまま、プロレスのスタイルでずっといたらやっていたらどうなるんだろうって。それは、あり得ないことなんですけど。ただ、振り返った上でも必然的に格闘技の方向に引っ張られていたと思います。それも必然ですね」

(取材・構成 福留 崇広)



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