リーマン・ショック生き延びた僕らが、フィンテックに賭ける理由 – BUSINESS INSIDER JAPAN

Home » 起業・独立 » 会社 税金 » リーマン・ショック生き延びた僕らが、フィンテックに賭ける理由 – BUSINESS INSIDER JAPAN
会社 税金, 起業・独立 コメントはまだありません



2008年に起きた米リーマン・ブラザーズの経営破綻を引き金とした世界的な金融危機、いわゆるリーマン・ショックから、今年で10年を迎える。



当時、世界の大手金融で若手として働いていた人たちから今、まさに成長期にあるフィンテック業界の牽引者が生まれている。金融危機を肌身で体感した彼らに、この10年間で何が起こったのか。

リーマン

リーマン・ショックから今年で10年。この間に、金融の世界もそこで働く人の人生も大きく変貌した。

Reuters/Kim Kyung Hoon

「明日の朝刊に、会社のチャプター11入り(連邦破産法11条の適用)が出ます。会社はどこかが買うだろうけれど、まだ何も決まっていない」

2008年9月15日、リーマン・ショックの前日の日本は、日曜日だった。

当時、リーマンの新入社員だったOrigami(おりがみ)の代表、康井義貴(33)は、休日の六本木ヒルズ森タワーのオフィスに召集されて、会社からの説明を聞いた日のことを鮮明に覚えている。

学生時代からビジネスを立ち上げ、リーマン・ブラザーズでもインターンをしていた康井は、状況の厳しさは勃発前から感じていた。

「それでも、みんなうちは大丈夫、と思うものなんです。それが、一夜にして消えてしまうことを体感させられた。リーマン・ショックは、なんというか——。本当にいい勉強になりました

森タワー

2008年に経営破綻したリーマン・ブラザーズが入っていた、六本木ヒルズ森タワー。

GettyImages

もともと「基礎的な知識を身につけるための数年」のつもりで入社したリーマンだったが「想定より早く、会社が吹っ飛んだ」(康井)。

10歳まで海外育ちの康井は語学に不自由はなく、そこからシリコンバレーのベンチャーキャピタルに転身。アメリカ、日本、中国のスタートアップへの投資業務に携わる。

スタートアップブームに湧く米西海岸で、勢いあふれる数々のビジネスの息吹を目撃することになる。

その中で「この20年くらいで情報通信の世界で起きた大きな変化が、フィンテックにより、金融の世界にもたらされる。今後10年で、ウォールストリートの半分の会社の形が変わるような、地殻変動が起きる」という確信を持つようになる。

2018年9月現在、康井は、スマホ決済サービスを手がけるフィンテックのOrigami代表として、六本木ヒルズの森タワーにオフィスを構えている。

くしくもフロアは、リーマン・ブラザーズ時代に徹夜を繰り返して働いた、31階の同じ場所だ。

origami

Origami代表の康井義貴。トロント、ニューヨークで育ち、シドニー大学、早稲田大学を卒業。Origami本社はくしくも10年前、リーマン・ブラザーズ時代に働いていた六本木・森タワーの同じフロアだ。

撮影:今村拓馬

「オフィス移転を考えた時に、たまたまそこしか空いていなかったんです。ただ、何かの縁は感じますね」

手数料で稼ぐ従来型の金融ではなく、キャッシュレスを一つの軸に「金融の新しいプラットフォームを作りたい」と2012年にOrigamiを創業。現在、ソフトバンクグループはじめ大企業から数十億円規模の資金調達を行い、ローソンなどでサービスを導入するなど、着実に歩を進めている。

康井は言う。

社会的にリーマン・ショックが何だったのか。過信だったとも思うが、本当には答えられない。ただ、あの金融危機があったから、今の自分があるのは間違いない

「セルサイドは終わったんだ」

「当時、めちゃくちゃクビになったんですよ。僕の周りで」

フィンテックベンチャーのフィナテキストCEOの林良太(32)は、10年前をそう振り返る。2008年のリーマン・ショック翌年、ドイツ銀行に就職。林はロンドンの拠点で働いていた。

機関投資家向けの株のセールス担当として、若手ながらたった1人で欧州全域を飛び回った。というのも「とにかく、人がいなかったから」。

林の記憶では、スイス、イタリア、フランスなど数十人いた欧州担当者が、金融危機後の1年あまりで、林を含むロンドンの、片手で数えられるくらいの人数に絞られた。報酬の高いベテランから切られた。

そうはいっても金融バブルの残り香は、リーマン後もあった。入社してしばらくはセールスの実績さえ上げれば、20代でも年収は数千万円。それが1年もすると、トップセールスを上げたにも関わらず、ボーナスの明細を見て「あれ、ゼロが足りないんじゃないの?」。愕然とした。

フィナテキストの林

「世界でも優秀な日本に足りないのはリスクテイク」と語る、フィナテキスト代表の林良太。東京大学卒業後、ドイツ銀行、ヘッジファンドを経て起業。英語、中国語、上海語、日本語を流暢に話す。

撮影:滝川麻衣子

「ああ、セルサイド(証券会社)は終わったんだな、と思いました」

林は2013年、日本のヘッジファンドに転職。そこで出会った、東大大学院の「天才レベル」の同窓生と、2人で週末のファミレスでコーディングをしてシステムを開発する。

それが現在の、フィナテキストの主力サービス「あすかぶ!」の原型だ。2014年には、本格的に個人向け金融サービス事業を開始。リーマン・ショックからの10年で「金融の主役はサービス事業者へシフトしている」と感じたからだ。

投資銀行全盛期の終焉を、欧州の地で生身で体感した林はこう言う。

「日本人は世界的に見てレベルが高く、本気で優秀です。ただし、リスクテイクしない。けれど、リスクをとって挑んでいかなければ、日本の未来はないと思っています。自分で選択して、たとえ失敗しても、死なないですから

僕はアフター9.15の第一世代

エメラダ代表の澤村さん

エメラダ代表の澤村帝我。「既存の金融システムの歪みを是正したい」と考えたのが、起業のきっかけだ。慶應義塾大学総合政策学部卒。

撮影:滝川麻衣子

「日経平均株価がガーッと下がり始め、上司が叫んでいましたね。大変なことが起きた、と」

2008年春、野村證券の投資銀行部門に新卒で配属されたエメラダの澤村帝我(32)は、その年の9月、日経クイックのボードを呆然と眺めた日のことをよく覚えている。

就活当時、証券会社や投資銀行はこぞって優秀な人材が集まる、まさに花形だった。澤村は「日本市場を学ぶのに最適」と、国内トップの野村證券を選んだ。しかし、リーマン・ショックの勃発で、事態は激変する。

僕は、アフター9.15の第一世代だと思っています

澤村のいた野村證券は、破綻したリーマン・ブラザーズのアジア・欧州部門を買収。海外育ちで英語に不自由のない澤村は、海外のリーマン・ブラザーズとのプロジェクトに携わった。

「いろいろ言われても、リーマンの人たちは本当に優秀でした」

所属するチームのグローバルヘッドは女性で、ビジョンの共有、目標の設定、若手への心配りが徹底されていたことが、鮮烈に記憶に残っている。

リーマン10年

2008年9月の金融危機で、市場は混乱に陥った。

Reuters/Kim Kyung Hoon

「金融理論の活用では、欧米と大きな差がついている」と、2012年にはゴールドマン・サックスへ転職。IPOや増資、M&A業務に携わるが、経験を積むほどに、ある「歪み」を感じるようになる。

財務のプロがいる大企業が顧客で、証券会社や銀行から多様な提案を受けられる世界は完成されている。一方で、世の大多数は中小企業。そこには財務のプロがおらず、資金調達の選択肢も少ない。大きな歪みが存在した。

金融システムの歪みをテクノロジーで解決したい」との思いから2016年、多数の金融機関にアクセスできるオンライン融資サービスなどを展開するエメラダを立ち上げた。

「リーマン・ショックは今思えば、一つのリセットのタイミングだったと思います」

澤村は今、そう振り返る。

資金が循環してないところへ資金を流通させ、新たな産業フィールドの成長を支援することは、(自分のような)大手金融出身者こそが、やるべき分野

ドブ板営業の時代は終わった

エメラダの野澤さん。

エメラダ広報の野澤真季。野村證券時代のつながりで、声がかかった。法政大学法学部卒業後、野村證券では個人法人富裕層向け資産運用を担当。

撮影:滝川麻衣子

「リーマン・ブラザーズ買収で、野村は給与体系が大きく変わり、ボーナスは年2回から1回に。そのせいで、(年末調整で税金の不足分が天引きされる)12月は給与振込がほとんどないと、上司が嘆いていたのを覚えています」

エメラダ広報の野澤真季は、リーマン・ショック後の4月に野村證券に入社。激変期を目の当たりにした一人だ。同期には、リーマン・ブラザーズの内定者10人程度がいた。

「ローンのボーナス払いをしている人などはシャレにならなかったと思います。これこそが『リーマン・ショック』と、社内で話していました」

相場が下がりに下がって、日経平均が8000円台、しかも円高。国内トップの野村證券の営業にも逆風が吹いていた。

「その頃から、証券会社頼みだった投資家の金融リテラシーも大きく変わったと思います」

個人富裕層と中小企業の営業担当だった野澤も、時代の潮流の変化を肌身で感じた一人だ。

それまで日本の証券会社で主流だったドブ板営業よりも、テクノロジーを駆使した、新たな金融サービスが必要になってくるのではと

エンドユーザーのために金融工学を

「ひょっとすると、サブプライムローン問題を背景とする一連の金融危機がなければ、大手金融の世界は輝きを持ったままで、自分も今もそこで働いていたかもしれません」

ロボアドバイザーのウェルスナビのリサーチ&クオンツ・マネージャーの牛山史朗(40)は、10年前の「もしも」について、そう語る。

2000年代初頭、京都大学でコンピューターサイエンスを学んでいた牛山は、学内のある勉強会で、金融工学について知った。

金融工学で「人を幸せにして日本の利益を守ることをやれたら」との思いから、大学院卒業後は、三菱UFJ信託銀行に就職。2007年からはより専門性を発揮できるクオンツ(金融業における数理分析の専門家)として野村證券に転職する。

ウェルスナビの牛山さん。

ウェルスナビのクオンツ、牛山史朗は「人を幸せにするために金融工学を使いたい」と考えた。京都大学で情報工学、同大学院で金融工学を専攻。

撮影:滝川麻衣子

しかし、2008年のリーマン・ショックで、業界の様相は変遷していく。

「スケールの大きな仕事があり、非常に優秀な人たちがそろう恵まれた環境でした。ただ、(金融危機後は)より高度なことをやって金融機関として収益をいかに上げるかに、よりフォーカスされるようになったと感じました」

牛山は振り返る。そこから7年、野村證券で経験を積んだが、2015年の冬、創業1年足らずのフィンテックベンチャーのウェルスナビに飛び込んだ。

年収を大きく下げたのはもちろん、全く無名のベンチャーへの転身だったが、「生まれた息子に『人の役に立つ仕事をするんだよ』と話すうちに、自分こそそうありたいと思うようになった」。金融工学を目指した時の、原点に立ち戻ったという。

ウェルスナビはロボアドによる、自動資産運用の会社。現在の牛山の仕事は、自動で個人の資産運用を行うロボアドバイザーのサービスを構築していくことだ。金融機関がいかに収益をあげるかではなく、金融工学を「エンドユーザーのために使っているという実感があります

金融危機によって、人生を翻弄された人がいたことは間違いない。ただ、危機によって人生が大きく動いた人たちの中から、新たな時代が芽吹いたことも、まぎれもない事実だ。(敬称略)

(文・滝川麻衣子)



コメントを残す