55歳で独立したかった?ゲームボーイ開発者が任天堂を退職した訳 … – livedoor

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 横井軍平氏は、ゲームボーイなどを開発した任天堂の技術者。その海外のゲームファンにも知られている伝説の開発者が、実は任天堂を退社した直後に『文藝春秋』に手記を寄せていた。横井氏は、この記事の掲載の約1年後に交通事故で帰らぬ人となったが、いまもその思想は受け継がれている。



《解説》横井氏が任天堂に残した、玩具メーカーならではのDNA

 任天堂アーカイブプロジェクト代表・山崎功氏による解説「横井氏が任天堂に残した、玩具メーカーならではのDNA」も末尾に掲載。

出典:「文藝春秋」1996年11月号

◆ ◆ ◆

任天堂退社前夜の出来事


横井氏の評伝『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』(牧野武文・著)

 さる8月15日、30年以上勤めた任天堂を退社しました。大学を出てからずうっと任天堂で玩具作りにかかわってきたのですが、55歳を区切りに自分のアイデアをもっと自由にいかせる仕事をしようと考えたのです。

 もっとも、新しい門出に、いきなり洪水のような報道が襲ってきました。

 退社する前日に、『日本経済新聞』が私のことを大々的に報じたのです。

 いわく「ゲームボーイを開発した功労者が退社した。鳴り物入りで宣伝した『バーチャルボーイ』失敗の責任をとったものだ」

 いわく「『NINTENDO64』が予想以上に売れていないため、任天堂の利益が大幅に減っている」

 二つの「事実」を並べて読むと、読者には任天堂が大変な苦境に陥り、まるで内紛でも起こっているかのように思えるでしょう。

 実際には、私は「『バーチャルボーイ』失敗の責任をとって」辞めたわけではありません。

 前々から、55歳になったら、独立したいと考えていました。

 ですから、任天堂を恨んだり、憎んだりといった感情は全くと言っていいほどありません。また『NINTENDO64』は、直接私の担当ではありませんから、私の退社と結び付けるべきことでもありません。利益大幅減といっても、今までの利益が大きすぎただけで、これほど大きく報じるべきことなのか疑問に思います。

 しかし、その一方で、世間の任天堂という企業に対する関心の高さにはびっくりしました。新聞や雑誌が次々に取材に来ましたし、講演の依頼もたくさん頂きました。

 その過程のなかで、世間の人々が任天堂と私のどの部分に興味を持たれているかもわかってきたような気がします。

・一体、任天堂成功の秘密は何なのか?

・これからも、あのサクセスストーリーは続くのか?

・会社が大きくなるといろんな歪みがでてくるのではないか?

 ――たしかに、それはどの企業の経営者も、あるいは、どんな立場のサラリーマンでも興味のあることだと思います。実際、この30年間の任天堂で起きたことは「奇跡」でした。ですから、私がこの30年任天堂で何をし、何を考えてきたか、を素直に話せば、こうした疑問にお答えできるように思います。

 初めに申し上げておきたいのですが、私が辞めた瞬間、「山内社長のワンマン体制に嫌気がさした」ととる人が大勢いました。しかし、私は任天堂がここまで大きくなったのは、実はワンマン体制のおかげだと思っています。

山内社長のワンマン体制が「ゲーム・アンド・ウォッチ」を生んだ


任天堂を世界的企業に成長させた山内博社長(当時) ©文藝春秋

 ワンマン体制=悪という感覚でとらえる人は多いのですが、商品開発の場合そうともいえません。

 例えば任天堂の転機となった、「ゲーム・アンド・ウォッチ」。これは私が開発したものですが、ワンマン体制だからこそ生まれた商品だといえるのです。

 あれは私が、38歳の時でした。電卓タイプのゲームで、大人向けの手の中に隠れるような薄っぺらいものを作りたいという提案をしたのですが、社長が興味を示して「すぐにやれ」ということで開発がスタートしました。

 しかし社内の声は冷たいものでした。営業も宣伝も半数以上が「そんなもの売れるものか」という否定的な意見なのです。

 つまり、普通の会社組織のように私が「ゲーム・アンド・ウォッチ」を提案し、営業会議で検討して、重役会に諮ってという手続きを経ていたら、必ずどこかで潰されていた商品だったのです。

 ところが社長がやれと言っているものだから、誰も反対できない。

 私は財務面のことはよく知らないのですが、「ゲーム・アンド・ウォッチ」の発売前、任天堂は70億とも80億とも言われる借金があったそうです。それが「ゲーム・アンド・ウォッチ」を売り出して1年後には借金を全部返済し、40億ぐらいの銀行預金ができました。発売前は開発者の私ですら10万個売れたら多少は会社の足しになるかなという程度の考えだったものが、結果的には5000万個近く売れてしまった。

 ところが、社長はこのわずかに溜まったプラス分をファミコンにドーンと投資した。それが成功したのですから、勝負師といえるでしょう。私だって、最初それを聞いた時は、せっかくプラスになったのにそこまでしなくても……という気がしたほどです。

 つまり、馬券を1枚買ったらわずかに儲かった。それを全部次の馬に注ぎ込んだらまた当たったということが何度も起こって、任天堂が世界に名前を轟かすような企業になったのですから、これは社長のワンマン体制ぬきには語れません。

任天堂入社のきっかけとは

 その間、私にとっても、一応組織はあるが、あってないようなものという時代が続きました。

 なにしろ、私自身が社長の直接の部下という気持ちだったのです。組織的には、私のいた開発部は製造本部の1部門で、私と社長の間には製造本部長である常務が1人います。けれども実際は、社長は直接私に開発の話をするし、私は私の直属の上司である常務とはほとんど開発の話はしない。実質上、社長が開発本部長であり、開発部は製造本部とは別の部隊であるという状態だったのです。

 私の意見が役員を通り越して社長に直接に繫がりますから、ナンバーツーのような感覚を持つときもありました。これは私だけのことではなく、社員みんなが持っている感覚だったと思います。

 大体、私が任天堂に入社したこと自体が、いい加減な動機からでした。

 私は昭和40年に任天堂に入社したのですが、同志社大学の電気工学科を卒業したものの、恥ずかしながら成績は下から数えたほうが早いぐらい。就職活動をしても悉く落とされてしまった。

 そこでたまたまみつけたのが、任天堂からの電気工学科生の募集です。任天堂というとトランプや花札を作っている会社なのに、何で電気工学科の人間が必要なんだろうという疑問も感じましたが、ともかく京都にあって家から通えるというところが気に入って受けたら、採用通知がきました。


京都の任天堂本社工場 ©文藝春秋

退屈しのぎに玩具づくり

 出社してみると、部署は工務課。トランプや花札を製造する機械のメンテナンスをやる仕事です。当時、新しい法律ができて、30KVA以上の受電設備を有する企業は電気主任技術者を置かねばならないことになったそうなのですが、どうも、そのために採用されたようです。

 ところが、電気管理というのは退屈で仕方がない。もともと私は物作りが好きだったのですが、会社には立派な旋盤とか彫刻機といった機械が揃っている。そこで退屈凌ぎにいろんな玩具をつくって遊んでいたのです。

 ある時、社長が私の作った玩具を見て「お前、それを持ってちょっと役員室へ来い」と言う。てっきり怒られると思ってついて行ったら、いきなり社長に「それを商品化して売りたい」と言われました。

 今、考えてみると、それが私の人生のはじまりであり、ある意味では、「トランプ、花札の任天堂」が「世界の任天堂」に変わる最初の一歩だったかもしれません。

 入社してまだ1年も経たない、しかも玩具を商品化した経験もなければノウハウもない私が、見よう見真似で、金型の設計からどこで成形して組み立てるかということまでやった。

 それが『ウルトラハンド』という名前の商品になりました。

 いわゆるマジックハンドですが、当時東京オリンピックの名残りでウルトラCという言葉が流行っていたので、社長が『ウルトラハンド』という名前を考えたのです。


異例の140万個を売り上げた ウルトラハンド 写真提供:山崎功

 これが当たりました。なんと140万個も売れたのです。玩具は10万個売れたら大ヒットだと言われていた時代ですから、どれほどのヒットかおわかりいただけるでしょう。

たった2人でスタートした開発課

 そこで社長が、私のために開発課というのを作ってくれました。ところが私はまだ入社2年目の単なる開発課員。技術者も私1人。しかし、課ができれば経理関係のことも見なきゃならない、というわけでつけてくれたのがいまの広報室長で取締役の今西氏です。

 たった2人でスタートした開発課ですが、あの頃を楽しく思い出します。

 ピンポン玉を放り出してバッティングセンターのようにバットで打つ「ウルトラマシン」を開発したり、光線銃を作ったり。

 たった2人の開発課が「トランプの任天堂」を変えてゆくことになりました。

 基本的には、その後の「奇跡」も同じ構造から生まれています。

 大ヒットした「ゲームボーイ」はもちろんのこと、「バーチャルボーイ」の開発の時もそうでした。最初は立体映像のゲームが作れないかというアイデアだけがあったのです。立体で見えるディスプレイをもう少し工夫したら何かできるんじゃないかという、非常に曖昧なアイデアでした。その実験をするには5,600万円のお金がいるので社長のところへ行ったのです。

 ところが社長はせっかちで、どんなものがいくらでできるのかまで聞いてくる。

 慌てて、閃くままにこうなってああなってと説明したら、社長が乗り気になって、600万円では足りないだろう、そのディスプレイを作ってるやつの権利も買い取れということになり、その場で600万円の予算案が一気に2億円になってしまいました。

 そんなことを続けて30年が経ちました。30年前の任天堂に比べると、変わってきたものも感じます。

 それは、いわゆる「大企業病」というべきものかもしれません。新しく入ってくる若い人に昔のことを話してもみんなびっくりします。

任天堂は「すきま」産業

 たしかに、彼らにとってみれば「世界の任天堂」に入社してきたのでしょうが、私達にとっては、京都の小さな企画会社。いまでも規模はそれ程大きくありません。自分で物を作っているわけでもなく、企画を考えて外注しているだけです。

 そういう意味では、「すきま産業」でこまわりをきかせて頑張ってきたのですが、ここにきて、そうもいかなくなってきました。私が55歳になったら独立しようと漠然と考えていたのも、そんなことが原因かもしれません。

 例えば、最近の任天堂では、新しい商品は年商1000億以上売れる可能性のあるものでなければだめだということを1つの基準にしています。1000億以上売れないものはやっても無駄だという発想なのです。

 なぜなら「スーパーファミコン」も、「ゲームボーイ」もそれぐらい売れています。そこで新しい商品を開発、販売、宣伝しようとすると、いまある柱のどれかをやめなければならないということになるのです。


ファミコンブームに日本中が熱中した ©文藝春秋

「これが退社の唯一の理由なのです」

 もちろん、設備投資をし、人員を増やせば新商品はできますが、その場合、従業員1000人たらずの現在の規模を拡大しなければならなくなります。

 上場企業になった以上、株主への責任もありますから、そんなに無茶はできません。となると、1000億の売上げの見込めることしかできなくなるんです。

 しかしそんなアイデアは、おいそれとあるものではありません。

 この話をほかの会社の人にしたら信じられないと言われました。あの天下のトヨタでも、100億儲かるならやろうということになると。しかし任天堂は違います。任天堂の商品の数は非常に少なく、それで数千億円の売上げをだしているからです。

 こうなると単なる閃きではもう賄いきれません。これからは衛星事業だとか、マイクロソフトと提携するとか、そういう分野に乗り出していかざるを得ないでしょうから、私の存在価値もだんだん下がっていくだろう、そんな気持ちもありました。

 つまり、私は一生アイデアを出し、玩具を作りつづけたかった。任天堂創業精神の「すきま型玩具」のアイデアをひねくっていきつづけたかった―――これが退社の唯一の理由なのです。

 かつて、いろんな企業からスカウトのお話を頂きました。ものすごいボーナスを約束されたりもしましたが、どんな形の仕事をするんだと聞いたときに、やっぱり任天堂のほうがいいと思い、心が動くことはありませんでした。

踏み台にされた苦い経験

 もちろん、ある意味では組織の人間ですから、独立するには、生活の不安もあります。また、企業で生活する以上、人間関係でいやなことも経験しました。

 ワンマン体制は、いい面ばかりではありません。ワンマン体制を悪用してのし上がろうとする人間がどうしても出てきます。私も1度、そういう人間の踏み台にされたことがありました。

 私は金銭欲や名誉欲が比較的少ないほうだと思いますから、任天堂の中では敵は少ないほうだったと思うのです。しかし、それを利用して踏み台にされたことが1度だけありました。

 かつてある人物が困っていて助けたことがあるんですが、にもかかわらず飼い犬に手を嚙まれるような行為をされたことがあります。

 これ以上詳しくはいいませんが、社内の誰が見てもわかるようなことだったのです。

 ところが誰もそれを社長に報告しようとしませんでした。今でも社長は気がついていないでしょう。

 これがワンマン体制の悪い部分であり、会社が大きくなるにつれて、この弊害も大きくなる可能性は感じています。

「大企業病」とは何を指すのか

 さて、もう1度、任天堂「すきま産業説」に戻りましょう。

 私の開発哲学は、とにかく世界にないものを作るということでした。世界にない商品を作れば、それによって新しい独占市場を手にすることができます。似たような商品をつくれば競合して、シェア争いになる。そんなシェア争いをするなら、新しいシェアを作ったほうが手っ取り早いというのが私の考え方です。


光線銃カスタムガンマンセット 写真提供:山崎功

 独占商品ならば1円高かろうが安かろうが関係ない。ある商品を作るうえで、10円高い商品でも売れるアイデアだったら、1円商品が高くなっても関係ないわけですから、アイデアこそ一番重要で、それをどこでいかに安く作るかはあとの問題になります。任天堂も中国への工場移転が話題になりましたが、私は国内生産でも、会社が十分潤うだけのアイデアでなければ、優秀なアイデアとはいえないと思っています。

 ただし、間違えてもらっては困るのは、世界にない商品を作るということは、世界の最先端をゆく、世界にまだない技術を使おうということではありません。

「最先端」にこだわり、「不要」なものをたくさんつけて「高価」な玩具を作るとしたら、それこそ「大企業病」であり、「すきま」精神を忘れた行為だと思うのです。

 例えば、ファミコンの外側は「とにかく値段を1万円以下にしたい」という精神のもと、私が指示して作ったものですが、今、常識のようになっている「十字キー」と呼ばれるコントローラーがあります。

 あれはいかにしてコントローラーを安く作るかということから出てきたアイデアでした。当時のコントローラーはいわゆるジョイスティックというもので、大変コストがかかるものでした。どうしたら安くなるかというので思い出したのが『ゲーム・アンド・ウォッチ』の『ドンキーコング』という商品につけた十字スイッチでした。

 このときはいかに薄くしてジョイスティックの機能を実現するかということで考えたアイデアでしたが、結果的にそれが非常に安くできたという経験があったので、そのままファミコンに利用することにしたのです。

『ゲーム・アンド・ウォッチ』誕生秘話

『ゲーム・アンド・ウォッチ』を開発した時にも、私はいかに小さくするか、つまり画面サイズをどこまで小さくできるかということに悩み抜きました。

 そんな時、週刊誌を見ていると、女性が本を抱えている写真が掲載されていた。ところが、写真の中の女性が抱えている本の写真の絵柄がはっきりわかるんです。その本は切手ぐらいの大ききで写っていたんですが、これを見て、切手ぐらいの大きさでもはっきり確認できるんだから、画面も切手の大きさで十分だということがわかりました。

 ところが最初に私のアイデアを製品化しようとした人間は、ゲームをやるのなら画面は最低5センチ角は必要だという固定観念から離れられず、それを一生懸命追いかけてしまっていたんです。5センチ角ではどうしても値段が3万円、4万円の機械になってしまう。だから行き詰まって、「そんなもの誰が買うんだ」ということになっていました。

 私が、画面は切手大でいい、それでゲームはできるという話をしたらみんな信じてくれません。そこで週刊誌の写真を見せた。これは5センチ角ぐらいに感じるけれども、実際は2センチ角で、なおかつ十分見えるという説明をしたら納得してくれました。


シリーズ第1作目となったゲーム&ウオッチボール 写真提供:山崎功

 実はこういうところに開発のポイントがあります。

 もう一つ大事なことがあります。私の所属する開発第1部は、ハードもソフトも扱っていました。普通、大メーカーの開発部門は、ハードを作っています、ソフトは別部門が開発します。しかし、これは実に無駄なことを生じるのです。

 つまり、ハード屋はソフト屋のどんな注文にも応じられる機械をつくれば、いい機械ということになってしまうからです。

 となると実際にその製品が世に出た時に、ソフト屋が使わない部分がいっぱいついた製品が出てくることになりまず。さらにこれが贅肉となって、製品の価格を押し上げることにもなります。

いらないものはいらない

 皆さんも、お持ちになっている家電製品で、使い方がわからず、全く使ったことがない機能がいくつもある製品があるでしょう。ワープロやビデオにもそういうものがあります。これは、大企業が作る製品だからではないか、私などそんなことを考えることもありました。

「ゲームボーイ」の場合、ハードもソフトも同じ部内で開発していました。ハード屋に指示を出し、ソフト屋にそのハードでどんなことができるのかを検討させたのを見て、またハードのこの部分はいらない、ソフト屋はそんな機能は使わないといった作業を繰り返します。だからこそでき上がった商品はまるっきり贅肉のないものになりました。

 つまり、いらない機能を全部捨てたからあの値段でできたのです。私は娯楽という分野ではそれが非常に重要なことだと思います。

 もちろん、コンピュータだとそうはいきません。パソコンは誰がどんな目的で使うかわからないので、あらゆる機能をくっつけるしかない、という設計思想で作っているからです。これはある意味では正しいと言えるでしょう。

 しかし、技術者の心理として、あと1%値段を上げればこんなこともできるという感覚が積もり積もって、いっぱいよけいなものがついたものができる――そういうことは「大企業」ではよく起こることなのです。私がいう「大企業」とは、大きい企業という意味ではありません。「すきま」意識、商品開発意識が欠けた企業という意味です。


シアトルの米国任天堂 ©文藝春秋

 私はたとえ1%でも、いらないものはいらないんだという考えで削っていきました。

 それでいわゆるユーザーがほんとに必要とするものだけの商品ができ、コストも最低のものができ上がってくるのです。

 実際、娯楽品のような不要不急の商品は安くなければ売れません。しかも玩具の場合、10万セット売れてワーッと喜ぶような業界ではなく、1000万売らないと話にならない世界なのです。

「世界にまだない商品」は「最先端技術を使った商品」ではない

 最先端技術に関しても、飛びつくな、じっと見守れ、娯楽に使える値段まで落ちた時に狙えと言いつづけてきました。『ゲーム・アンド・ウォッチ』の発想も、かつて数十万円もした電卓がポケットサイズで3000円ぐらいになって、これは使えるということになって生まれた。

 本当の先端技術を使ったら売れるものはできません。娯楽の世界ではそんな高い商品は誰も買ってくれないのです。私は世の中を見て「枯れた技術」を使えと言っている。

 たとえば画期的な技術があるとします。それで物を作ると1個の部品が何万円もする。これが大量生産されていろんな産業機械とか民生機器に使われていくと、1個100円ぐらいに落ちていく。そこからがわれわれの出番なのです。

 もともと先端技術は娯楽品を作るために出てきたものではありません。軍事であったり医療であったり、そういうもののために出てきた技術です。それがだんだんいろんな用途に使われていくうちに値段が安くなっていく。

 しかし娯楽に使おうとはまだ誰も考えつかない――――そこを狙うのが利口なやり方であり、私が言う「世界にまだない商品」の開発なのです。

 別な言い方をすると「枯れた技術の水平思考」です。炭素繊維がいい例でしょう。最初は宇宙開発に使われ、次に飛行機の主翼になり、結局身近になって釣竿とゴルフクラブでヒットしています。

 ソニーのウォークマンがいい例です。先端技術がヒット商品に結びつくわけじゃない。ソニーの技術でなければできないものでもけっしてない。ああいう閃きこそ重要なんです。

 今度発売になった『NINTENDO64』はそういう意味では私の商品開発哲学とは違います。だからといって『64』が間違っているなどと大それたことも言いません。『64』が大ヒットすればその考えもまた正しかったということでしょう。

 しかし、私は、『ゲームボーイ』流の「すきま」商品が好きであり、今後もそういう仕事が続けたかった。そう考えてゆくと、任天堂をやめ、独立するしかない――という結論に達したのです。

無から有を生む人間

 この9月にKOTOという会社を設立しました。KOTOとは、古都京都を意味します。私の育った町であり、任天堂がある町であり、そしていろんな工夫がこらされた都市を象徴する意味でつけた社名です。オフィスもちょっと凝ったものにしてみました。昔の京都の民家をそのまま残し、中側をぐっとハイテクに変えたつくりです。

 この会社はいわゆる研究施設、ラボラトリーたることを目的に作りました。つまり、開発部をそっくりそのまま会社にしたようなものなのです。KOTOは企画を考えるだけで、製品を作ったり売ったりするのは別の会社となります。KOTOはいくら増えても、30人以上の会社にはしたくない。ものを考えるのにそんなに人がいてもしょうがない、それが私の持論だからです。

一生懸命モテる努力をせよ

 ずっと開発をやってきましたが、無から有を生み出す人間がほんとうに世の中には少ないのです。30年間開発をやりましたが、私のもとで働くことでクリエイティビティを持った人間が育つということはありませんでした。

 息子が「お父さん、どういうときにアイデアって浮かぶの」と聞くぐらいだから、これは親子も関係がない。つまり、遺伝も関係がないということです。

 ただ、私がよく息子に言うのは、

「お前、女の子にモテたいだろ、それがアイデアを考えるコツだ」

 人の気持ちを引きたい、それは男でも女でも一緒です。その気持ちを商品にぶつけることが、売れる商品に結びついてゆく。だから一生懸命モテる努力をしたほうがいい。沢山の人間が喜んでくれるものを作る、これこそが売れる商品の根本でしょう。

 これから、私が世にだしてゆくものには任天堂時代、私が考えながら商品化出来なかったものがたくさんあると思います。

 しかし、これは任天堂と対決するということではなく、本当に売れそうなら任天堂に頼んで売ってもらうこともある、という開発です。現に、辞めるに当たって、山内社長にも、そういう場合は協力していただくようにお願いしました。

 マスコミは私の退社を山内社長との喧嘩のように報じたがります。しかし、私にとって、任天堂は育ての親であり、開発精神の故郷でもあります。そして偉大なる「すきま産業」がいつまでも繁栄してほしい、と本当に心から願っているのです。


大ブームになった初代ゲームボーイ ©iStock.com

《解説》横井氏が任天堂に残した、玩具メーカーならではのDNA

任天堂アーカイブプロジェクト代表・山崎功

 横井軍平氏が「伝説の開発者」と呼ばれ注目されるのは、ごく普通の会社員なのに数々のヒット商品を生み出し、「世界の任天堂」へと大躍進させたのはもちろん、彼の残した「枯れた技術の水平思考」という考えが、日本のモノづくりの原点を示しているからだ。

 メイド・イン・ジャパンは、かつて高機能と高品質でグローバル競争にも勝ち残れると自負してきたが、今ではそれが揺らぐ状況が起きていることは誰もが感じているだろう。

『ファミコン』で急成長した任天堂も、1990年代半ばにはソニーやセガとの熾烈なゲーム機販売競争を繰り広げ、成長の踊り場にいた。ゲームは驚異的なスピードで進化し、メーカーはゲーム好きな人たちの声に応えようと、高性能・大容量化の道を突き進んだ。その結果、複雑化するゲームについていけない人たちのゲーム離れが起き、ゲーム市場は縮小。

 そんな中、任天堂は10年ほど競った末にスペック競争から離脱し、もう一度遊びの原点に立ち返ることで、誰もが楽しめるゲームを目指した。『ニンテンドーDS』や『Wii』はこうして生まれ、幅広い年齢層の支持をうけ、任天堂を再びトップカンパニーへと導いた。元社長だった故・岩田聡(さとる)氏はその時の成功の秘訣を「枯れた技術の水平思考」であると明言している。


「ゲーム&ウオッチ」マルチスクリーンシリーズの2作目「ドンキーコング」のソフト。ニンテンドーDSに通じるインターフェイスになっている 写真提供:山崎功

 任天堂が横井氏の生んだ哲学に帰結できたのは、もともと玩具メーカーだったからに他ならない。玩具は安く作らなければならず、面白くなければ売れないため、必然的に「枯れた技術の水平思考」へとたどり着く。任天堂の開発者たちは、スペック競争から一歩引いて全体を見ることで、横井氏がこだわった遊びの本質を再発見したのではないだろうか。

 最近は、スマホゲーム『ポケモンGO』(ナイアンティック&ポケモン)や最新ゲーム機『ニンテンドースイッチ』の成功など明るい話題の多い同社だが、少し前には『WiiU』の販売不振による苦い経験があった。スペックはライバル機より低くても、コストバランスを図り、アイディアで挑む任天堂には、横井氏が残したモノづくりのDNAが今も脈々と流れ続けているのだ。

 横井氏はすでに他界しているが、その哲学は極めて日本的な職人技のモノづくりであり、私たちが今後グローバルで生き残るためのヒントがちりばめられているハズだ。そして横井氏の哲学が生き続ける限り、これからも任天堂は独創的な製品で、世の中をあっと驚かせてくれるだろう。

(横井 軍平)



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